ドイツ贔屓の中欧訪問記3  
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by よー子

 

 ディリンゲンから次の行き先はニュールンベルクである。高校生を満載したローカル線で、乗換駅のドナウヴェルトに向かう。天候不順でかなり寒いのに、乗り合わせた女の子の中には水着同然の背中丸出しスタイルの子もいて、寒かろうが何だろうがファッション優先の心意気に、「お年頃なのね」と感心させられる。オバサンはもうそんな元気はありません。

 ドナウヴェルトの駅に着くと、駅名票の下に"Stadt von Kaethe Kruse"と書いてあった。しまった、人形作家のケーテ・クルーゼの地元はここだったのか。ケーテ・クルーゼは仕事を通じて知ったのだが、何となくすねたような寂しそうな、独特の表情をした子どもの人形ばかりを作った人である。一度ゆっくり見てみたいと思っていたところだったのだが、旅程を考えるとここで時間は使えない。ダンナも「降りてもいいよ」と言ってくれたのだけれど、諦めてニュールンベルク行きに乗った。次回の旅行の楽しみができたと思うことにする。

DB Museum

 ニュールンベルクは卒業旅行以来。まずはダンナサービスにDB博物館(正式には交通博物館)に行った。

 ここの目玉は、スティーヴンソンの作ったドイツ初の蒸機、アドラー号である。他にも実車や模型、展示パネルなどなどが入口からドイツの鉄道史の順に並んでいるが、ちょっと面白かったのは実物大の信号やポイントを自分で動かせるコーナーくらいで、残念ながら期待ほどのことはなかった。スイス・ルツェルンの交通博物館の方がよほど規模が大きく、楽しめる。

 その上の郵便博物館では、鉄道模型メーカーのフライシュマンが特別展をしていたが、これも特にどうというほどのこともなく、さっさと、という感じで、ゲルマン博物館に移動する。今年はピアノ発明300周年で、「ピアノと楽器の歴史展」というのをやっているのである。

 ニュールンベルクはローマ以来の都市、旧市街地が城壁でぐるりと囲まれている。これをくぐったすぐのところに、巨大なゲルマン博物館がある。常設展まで全部見て回ると1週間はかかる大きさである。

 目指すピアノ展は、その一番奥でやっていた。初期のピアノから現代のものまでどどっと展示されているが、普段はピアノを好みながら、こういう時にはピアノと競い合って破れていったハープシコードとその仲間を贔屓したくなるのは、日本人的性向と言うべきだろうか。

 ハープシコードは現代のチェンバロにつながる系譜の楽器で、同じ鍵盤を用いながら、ツメで弦をひっかいて音を出すため、どうしても音量が上がらない。ピアノが登場した頃、「弦をハンマーで叩く野蛮な楽器」と言われていたそうだが、音量アップや音域の拡大が可能だったのはこの構造のお蔭で、それがハープシコードを圧した何よりの理由だった。確かに、ハープシコードと比較すると、ピアノの音はかなり派手と言える。初期のピアノは現代のものより相当大人しい音量だったが、ハープシコードや同類のクラヴサンが貴族女性の楽器だったのに対し、ピアノにお上品なイメージができたのは最近のことである。19世紀の作曲家シューマンの妻、クララ・シューマンが最初の女流ピアニストの1人として活動し始めた頃は、まだ「女がピアノを弾くなんて」と非難ごうごうだったのだ。

 ピアノ製作者に注文をつけ続け、楽器としての発展に自ら大きく関わったのはベートーヴェンで、彼の時代にピアノはほぼ現代のスタイルを整えた。彼以前のピアノ曲は、現在の楽器で演奏すると、音色も音量も、作曲家自身のイメージとは相当違うはずである。ピアノ・トリオ曲など、楽器のバランスがまるで違う。事情は他の楽器でもおよそ同じで、最近古楽器アンサンブルが増えているのは、本来の曲の姿を知りたいという欲求の表れだが、ほとんどの楽器の構造は完成され尽くしたのに、ここ20年ほどで調律が変わってさらに派手な音色が好まれるようになっている(基準周波数が上がっている)。より豊かな音色、より大きな会場で響く音を求める流れは、昔と変わっていないのだ。ピアノはこの先、どこへ行くのだろうか。

photo 2

 ゲルマン博物館で見るのはこれだけのはずだったが、行ってみると、タイトルは忘れたが、聖書を題材とした美術展をやっていた。あまり興味のないダンナを引っ張るようにして入ってみる。するとこれが、広い館内のスペースを使いまくったばかでかい展覧会だった。

 石のレリーフからミニチュア画、彫刻、絵画、工芸品、とにかく展示室を移動しても移動してもきりがない。最初は、展示物にまつわる聖人伝や聖書のエピソードを説明すると、いやいやながらも聞いていたダンナだったが、途中で完全に飽きてしまって、横でぶーぶー言うものだから、最後まで見ずに出てきてしまった。熱心に見て回ると、これだけで3日がかりになりそうだったから仕方ないが、今度行っても見られるものではないので残念だ。展示目録・解説書が50DM程度で売っていて、かなり迷ったけれど、ドイツ語でも英語でも読むのがあまりに大変そうだったのでやめてしまった。やっぱり読まなくても資料として買ってくるべきだったか(注記・後日、やっぱり欲しくなって、インターネットで買ってしまった)。

 一般の日本人よりこの種の展示に興味も知識もあると自負してはいるが、ヨーロッパでおいしい思いをするには、もっと聖書やローマ史の勉強をしてこないとダメだな、と改めて感じさせられる。日本には日本の誇るべき歴史や文化があって、逆に日本に来るヨーロッパ人がそれをどれだけ解っているか考えるとお互い様かも知れないが、これだけの規模のものを見せられると、味わい尽くせないのがやはり悔しい。この秋、東京で大聖書展があるので期待しているのだが、これだけのものにはならないだろうなぁ。

 貧乏旅行者の友、マクドナルドで昼食を済ませて、おもちゃ博物館に移動する。ペグニッツ川を越える辺りの景色はとても静かで、中世の面影を残し、第二次大戦の市街地破壊から再建されたものとは思えない(写真2)。

 おもちゃ博物館は、南ドイツのおもちゃ産業の全てを集めた博物館である。木のおもちゃ、紙のおもちゃ、金属のおもちゃ、人形、模型・・・創立者は知らないが、業界が全力を注いだ感じがする。

 中でも圧巻はドールハウスで、1m四方以上のサイズの中に細々と作り込んだお城などは、完全におもちゃの域を超えている。自分も1/150の鉄道模型のレイアウトを作るダンナが、「うーん」と唸ったきりしばらく前を離れられない芸の細かさで、備え付けの懐中電灯や虫眼鏡で細部を見るようになっているのだが、天井画は描き込んであるし引き出しの中の衣装はレースまで本物だし、チェスの駒まで完璧に彫刻が施されている。日本の雛道具にもものすごい豪華版があるが、洋の東西を問わず、贅沢は大人の楽しみなのである。子どものおもちゃでない証拠に、お城の上の方の寝室で裸の男女が絡み合っていたり、庭の隅では兵隊が女中を押し倒していたりして、これが大金持ちの大人の道楽だったことがよく解るのだが、卒業旅行で来た時にはこんなシーンには気づかなかったから、それだけ自分の目が大人になったということか?

 続いて錫の兵隊の部屋を見ていると、日本人団体が駆け足で入ってきた。2人でじっくり見物している私たちを見て、「新婚さんね」と聞こえよがしに言う。おいおい結婚8年目だぞ、と顔を見合わせて笑ううち、団体は風のように去っていった。まだまだ上の階に続きがあるのに、もったいない観光をするものだ。

 人形の部屋には、ジュモーやアーマンド・マルセルなどの作品と並んで、ドナウヴェルトで見逃したケーテ・クルーゼのコーナーがあった。いわゆるアンティーク・ドールは「気味悪い顔」と言うダンナが、「ふーん、これは何か違うね」とのたまう。彼女はどうして、こんなはかなげな表情の子どもの人形ばかり作ったのだろう?

 模型や金属(特にブリキ)のおもちゃも超ハイレベルである。博物館に納められるくらいだから、特にいいものばかりが選ばれているのは当然だが、精密で正確で丁寧な仕事ぶりがひしひしと伝わってくる。職人の手作りのものがすばらしいのはどこの国でも同じだが、大量生産の子ども向け商品が愚直なまでに質が高いというのは、そうあることではない。ダンナと2人、やたら感動しつつ博物館を出る。

 石畳の坂を上って、カイザーブルクに着いた。カイザーブルクは城壁と一体だから、城壁で囲まれた旧市街地を駅側から突っ切って、反対側の端まで来たことになる。

 もう夕方でお城のガイドツアーも終わっており、大した見ものはないのだが、ティーファーブルンネン(深井戸)では15年前と全く同じプレゼンをやっていて、笑ってしまった。最後に街を一望してから帰ろうと塔に上る。黄色っぽい壁に赤茶の瓦の建物が並ぶ街並みは、シュトゥットガルトとはまたひと味違って、美しいのだった。

 駅前で市電の写真を一通り撮る。ブイヨンで有名なマギーのパッケージ車輌が面白かった。本来、交通機関のテーマカラーは統一すべきだと思うけれど、これはこれでインパクトがあっていい。ただし、日本のように、街の中に既に色彩が氾濫している所では目にうるささを増すだけである。

 ニュールンベルクで泊まってもよかったが、翌日のスケジュールを考えて、パッサウに向かった。今回、行き先と見物先は全て私がアレンジしている(いや待て、新婚旅行の時もそうじゃなかったか?)。もちろんダンナの希望を考えて鉄メニューも組み込んだし、事前に「これでいいか」と訊きもしたし、特に初対面のドイツ人家庭と長々過ごすことについてはかなり確認もしたのだが、彼が「行き先はそれでいいよ」「初めての相手でも全然平気」とのんびり答えたので、私が好きに日程を決めたのである。

 次の行き先、パッサウは、中でも私が自分の好みだけで日程に入れた街である。パッサウはリューベック・バーデンバーデンと並ぶ「よー子的ドイツ3大好きな都市」で、何度でも行きたかったのだ。

 こんなわけで、私はパッサウは3度目である。ダンナが例によってのんびりと、「パッサウって何がそんなにいいの?」と訊く。ドナウ・イン・イルツの3つの川が合流するパッサウは、オーストリアとの国境でもあり、ドイツと言うよりもうオーストリアのような、静かで明るいのどかさの漂う街である。教会にあるものとしては世界最大のパイプオルガンがあり、ウィークデイは毎日昼にミニ・コンサートが開かれているので、それが聴きたい。また、新しくボヘミアングラスの博物館ができており、そこにも行きたい。

 ・・・などとICの中で力説していると、ダンナが、「よー子ちゃんって、南ドイツが合うみたいね。すごくくつろいで見えるよ」と言う。確かに、私の最初のドイツ体験はシュヴェービッシュ・ハルだが、以前自分では北ドイツの方が性に合うように感じていたのに、いつの間に、南の方がくつろいで見える性格になったのだろう?

 ダンナもドイツ・スイスはかなり回っているが、南ドイツはそれほど知らない。「北に比べると随分広くてのんびりした感じだね」と、自分も呑気者のくせに言いながら車窓を見ていたが、線路のすぐわきまで林の迫っている所で、突然「あ、鹿!」と叫んだ。私は一瞬そちらを見るのが遅れて見逃してしまった、と悔しがっていると、林の切れた畑でまたダンナが「あ、ウサギ!」と言う。これも私は出遅れる。ダンナの得意がりようったらない。何としても悔しいので、私も意地になって車窓に貼り付き、「ウサギ競争」が始まった。どちらが何匹ウサギや鹿を見たかという単純な競争なのだが、注意して見ると、鹿はともかく、ウサギは結構いる。「あ、あそこに2匹!」「あ、あそこで3匹も群れてる!」こんなに野生動物が普通にいるなんて、羨ましいことだ。私はウサギだけだが、ダンナはウサギも探せばすれ違う列車の車輌も気にしなければならないのだから(別にならなくはないが)、俄然忙しくなる。

Nuernberg > Passau

 傍目には、車窓を楽しむ日本人夫婦に見えたかも知れないが、実はウサギはいないかと必死で探すうち、レーゲンスブルクを過ぎ、ドナウ川が迫ってきた。ただでさえ日本の川に比べてヨーロッパの川は流量が安定し、氾濫原がないから、川岸まで満々と水をたたえているものだが、この辺りでは線路の位置が低いので、以前来た時には、車内に座って見る目の位置よりも上にドナウ川の水面があるような気さえするくらいだった。後で分かったことだが、私が前回乗ったICはオーストリア国鉄の車輌で、DBの車輌より窓が上下に広く、そのせいで一層窓の底辺に対して水面が高く見えたものらしい。

 その時の一人旅は結構傷心旅行だったので、夜のドナウに映る灯に人恋しさを誘われ、それが態度にも出たものか、車掌が「ちょっと喋ろうよ」と私のコンパートメントに居座るわ、入ってきたオーストリア人ビジネスマンに口説かれてパッサウで一緒に食事するわ、翌日乗ったドナウ下りの船ではバンドマンに迫られるわ、でもそんなことが当時の私には却ってありがたかったりしたのだ。ようやく日の暮れてきたドナウを見ながら、今は同じ場所で亭主とウサギ競争をやっていると思うと、何ともおかしい気がした。私なんかを口説いて食事をおごらされた挙げ句何もいいコトはなく、翌朝ホテルの部屋のドアの隙間から空しく名刺とメモをすべりこませていったミヒャエル某さん、お元気でしょうか。

 21:00過ぎ、パッサウに到着。最初卒業旅行で来た時は、駅も狭く、駅前レストランが1件あるだけの本当の田舎町だったが、今ではいっぱしの地方都市の顔をしている。駅近くの古いホテルに入ってみると、いかにも長年そこに座っているという感じのおじいさんがレセプションにいた。おじいさんの穏やかな微笑に惹かれてそこに宿を取り、夜の街を散策する。1時間も歩けば楽に1周できる小さな街である。

 駅前は変わっているが、市街は以前のまま、古い通りが続いている。川に沿った細い街並みを横切ると、そこはもうドナウ川だ。オーストリアに下る観光船が3つ、夜の川面に静かに浮かんでいる。暗いから大して景色が見えるわけではないが、ダンナが「何となく、よー子ちゃんがここが好きっていうの、判るような気がするよ」と嬉しいことを言った。

 翌朝7/12、相変わらず天気は思わしくないが、傘が要るほどではない。9時頃にホテルを出て、まずはDreiflusseckを目指した。その名の通り3つの川が合流する、ちょっと豪快で、それでいてドナウやインという川の名前が旅愁をかきたててくれる眺めである。雨続きのせいか川の流れは結構速く、岸辺を泳いでいた2羽のカモのひなが流される、と思った瞬間、ひなたちは意外なほどのスピードで親について戻ってきた。たくましいものである。

 ダンナもこの街がいたく気に入った様子で、珍しく自分で土産物屋に入ってこの地方の衣装を着たクマのぬいぐるみを買い、イルツィン・ドナウくんと命名した。3つの川の名前をつなげただけの安直な名前だが、まぁいいか。イルツィンくんは現在、ギーンゲンのシュタイフから来たクマ仲間のモリーちゃんと手をつないで、我が家のピアノの上に座っている。南ドイツ出身同士、仲がよさそうだと思うのは勝手な見方でしかないが。

Dom

 さてガラス博物館へ行くはずだったが、例によって私が道を間違え、時間を無駄にしたので、先にドームのミニ・コンサートの行列に並ぶことにする。ドームは正式にはザンクト・シュテファン教会と言い、後期ゴシックからバロックの様式である。コンサート前の説明から辛うじて聞き取ったところによると、建築の総指揮を執ったのはイタリア人建築家だそうで、建物の軽快な印象は、白い壁もさることながら、イタリア風が取り入れられていることによるらしい。

 まもなくコンサートが始まった。パイプオルガンの音域と音色の幅広さは、単独の楽器としては群を抜いている。割れんばかりの荘厳な音色は神の怒りの声、柔らかい中音部の音色は聖母の癒し、金属パイプの高音部だけを鳴らした時の音色は天使の奏楽。音の全ては広く高いドームで響き合い、上から全身に降りてきて、天にまします至高の存在を体に信じさせる。きっとそのために、パイプオルガンは会衆より高い位置に設置されることになっているのだ。この音そのものが神なのかも知れないと思わされてしまう音。

 わずか30分聴いただけで圧倒され、外でしばらく休まずにいられなかった。

 気を取り直してボヘミアン・ガラス博物館に入る。どこからこれだけ集めたものか、中世のものからロココ時代、ビーダーマイヤー時代、現代まで、もとは数件の家屋だったものをぶち抜いた5階建ての博物館いっぱいに、何万点というガラス器が並んでいる。あまりの数に印象がごっちゃになってしまうが、私はやはりボヘミアン・ガラスの黄金期、ビーダーマイヤー時代の華麗な作品が好きだ。華奢で華やかで、澄み切ったガラスである。緑もいいが、特に、「ボヘミアの赤」と称えられる、赤やピンクの色調がたまらない。

 博物館の一室に、オーストリア・ハンガリー二重帝国最後の皇帝フランツ・ヨーゼフと、シシィの愛称で慕われた美貌の皇后エリーザベトが若い日に泊まった部屋が残されていた。上がホテルになっていたのである。しまった。次にパッサウに来たらここに泊まろう。

 ガラスを堪能しすぎて時間が足りなくなったが、途中プラットリンクの駅でダンナの撮影に付き合ってから(ここでガイドブックを紛失したらしい。ここから先はガイドなしである)、取りあえずレーゲンスブルクに立ち寄った。一般にはローマの遺跡やソーセージ、あるいは郵便馬車制度を開始したトゥルン・ウント・タクシス男爵家が有名なのかも知れないが、私にとっては、レーゲンスブルクと言えば池田理代子の漫画「オルフェウスの窓」である。架空の物語だから実在の舞台があるわけではないが、大学があるため学生が多く行き交い、つい、漫画に出てくる音楽学校の学生もこの中にいるのでは、と思ってしまう。

 駅から公園を抜ける途中、インライン・スケートをはいて乳母車を爆走させるヤンパパを見かけた。スピード狂の子どもに育つに違いない。

 ドナウにかかるドイツ一古い石橋の真ん中あたりで振り返ると、落ちついた街が美しかったが、街一番の名所、何とか教会が修復工事中だったのが惜しい。街を一周して駅に戻る。今夜はミュンヘンに出て、ハノーヴァーまで夜行の予定である。行き先はハルツ山地。

 ミュンヘンの駅は、ドイツで唯一、印象がよくない。前に来た時も今回も、旅行者に倦んだ係員や店員が冷たい目をしている。

 ダンナも私も久しぶりのドイツで、一番変化に驚いたのは、ドイツ人に列車を予約する習慣がついていたことである。以前はよほどのことがなければ予約などなくても楽に乗れたのに、朝夕や夜行の長距離列車はたくさんの予約が入っている。

 特に私にとって運が悪かったのは、乗ろうとした夜行が新しくて本数の少ないICNだったことだった。ダンナがICNの車輌を見て、「え、ICNだったの?だったら僕、ちゃんと寝台に乗りたかったなー」と不平を言い出したのだ。取りあえず座席車輌に席を確保したが、混み合う列車の中で、「ホントにもう寝台もクシェット(簡易寝台)も満杯なの?今から取れないの?車掌に訊いてよ」と繰り返し、やたら不機嫌になってしまった。仕方なく、検札その他で忙しそうに走り回る数人の車掌を次々につかまえ、訊いてみるが、「少なくとも予約はいっぱい。キャンセルがあるかないか、いったん予約席が落ちついてからでないと分からないから待て」と言われるばかりで、どれくらい待てば分かるのかも分からない。空腹感も手伝って、ダンナの不機嫌指数はどんどん上がるし、車掌の方も、予約もしていない日本人が同じことを何度も訊くものだから不愉快そうで、いたたまれない気分になる。

 とにかく食事はしようと、食堂車に入って胃袋に多少ものを入れ、やっと少しダンナの機嫌が直りかけた頃、さっきまで手厳しく私をはねつけていた女性車掌がやってきた。寝台は空かなかったが、クシェットの予約客が2人来なかったので、希望するなら追加料金で座席と振り返られると言う。もちろん、ありがたくその通りにしてもらった。こういうところは、いかにもドイツ人的な仕事ぶりだと思う。分からないことは安請け合いしない代わり、できるとなったら、こちらはどこにいるとも言わなかったのに、食堂車にいるのを探し出して手続きをしてくれるのだから。お蔭で5時間ほど、横になって寝られることになった。

 従来のクシェットは4人なり6人なりのコンパートメントに、通路と直角方向にカーテンのない寝台が2段・3段についている形だが、ICNのクシェットは通路と並行の上下2段で、オープンタイプの代わりにカーテンがついていた。枕元には鍵のかかる貴重品ボックスや読書灯があって、機能的には格段に向上している。ダンナが下、私が上の段に寝ることにしたが、何やかやと気になって、私はちっとも眠れないのに、天下無類の寝付きのよさを誇るダンナは、あっと言う間に寝てしまったらしかった。ちょっと憎らしいほどである。

 ハノーヴァー到着のきっちり30分前、車掌が起こしに来てくれた。私は結局一睡もしなかったので、寝過ごす心配はない。朝食の予約は断って、身支度をしている間にハノーヴァーに近づく。

朝5時半、あたりはすっかり明るいと思うと、ダンナは早くもウサギを探していた。「きっとウサギも今頃畑で朝御飯だからね」。えぇい気楽な奴、と思ったが、そうなると自分もウサギ探しに走らずにいられない。残念ながらウサギは発見できず、代わりに大赤字と伝え聞くハノーヴァー万博の大看板をあちこちに見る。

photo 10

 ハノーヴァー駅構内の売店が6時に開くのを待って、朝食を仕入れた。ヒルデスハイム乗り換えで、最初の目的地はゴスラーである。この6月、帰省した時に訪れた京都のオルゴール博物館で、ひときわ印象に残った巨大な仕掛け時計兼ストリートオルガン兼からくり人形の集合体が、18世紀のゴスラーで造られたものだと説明係のお姉さんが言ったので、前から行きたかった所でもあり、俄然「行く!」と決めたのだ。

 が、ゴスラーに無事着いたものの、朝7時半では早すぎて、まだどこも開いていない。カラフルな彫刻を施した木組みの家々(この辺りのもFachwerkと言うのだろうか?)は可愛らしいが(写真10)、どうにも寒いので、どこか開いているところはないかと探したら、街中心の広場に面した高級そうなホテルのレストランが朝食の時間だった。泊まり客でなくてもいいと言うので入れてもらい、もう朝御飯は済んでいたが、コーヒーやフルーツをつまむことにした。ゴスラー一番のホテルだったらしく、高くついたけれど、雰囲気がよかったのでまぁいいことにする。

 ようやく街が目覚めだし、外に出た。ゴスラーは、規模と言い街の雰囲気と言い、ハーメルンに似ている。ハーメルンの方が観光地化されているが。残念ながら、京都で見た仕掛け時計のようなものはどこにもなかったが、ぶらぶら歩きの途中で見つけた錫の人形博物館が期待以上によかった。せいぜい数センチの大きさの人形を無数に並べて、歴史の一齣や昔のゴスラーの暮らしをあれこれ描いているのだが、こまこました感じが微笑ましいこと。鉱山の様子が多く、確かこの辺りに昔は銀山があったような、と思ったら、銀ではなく鉄が採れたという説明があった。どうも、漫画「エロイカより愛をこめて」の番外編で、ゴスラーが舞台のものとチロルの銀山が舞台のものをごっちゃにしていたらしい。我ながら、記憶が漫画に偏りすぎているなぁ。

 小さな街なので、午前中ですっかり見物を終えてしまった。なくなってしまった歯磨きを買ってから移動しようと思い、ドラッグストアに入って「一番安い歯磨きはどれか」と訊くと、売場担当らしい女の子が、20種類ほども並べてある歯磨きの値札を全部見比べてくれた。お礼を言って1つ手に取り、レジに行くと、そばに爪切りや毛抜きがある。私は長年ゾーリンゲンの先の尖った(本当にささるくらい尖っているのだ)毛抜きを愛用しているのだが、これが眉の整形にすこぶる具合がいいので、同じものを友だちのお土産に買おうと店長に話しかけた途端、隣にいた女性客が割り込みかけた。すると、にこにこと私に応対してくれていた店長が、一転ぴしゃりと「この方が先です。あなたは次まで待って下さい」とその女性をはねつけた。外国人客であっても歯磨きの値段やレジの順番をごまかさない、この店の人たちも昨夜の女性車掌と同じ人種だな、と思う。

 「先の尖ったのと平らなのとあるけれど、本当に尖った方の毛抜きでいいのか」と念を押してから、会計を済ませた私に、店長は「これはサービス」とさっきの女の子に指示し、男性用・女性用2種類の香水のサンプルをくれ、2人とも笑顔で"Wiedersehen"と言った。へたくそなドイツ語で買い物をする外国人に親切心を起こしてくれたのだろうが、政府観光局より何より、こういう人たちが私のようなドイツ贔屓を増やすのだ。

 店を出てすぐ、ボテロの彫刻作品が立っていた(写真12)。絵画作品と全く同じスタイルだからすぐそれと知れるけれど、ボテロはゴスラー出身なのだろうか?

photo 12

 続いて、電車で30分ほどのヴェルニゲローデに向かった。わずかな距離だが、昔はゴスラーとヴェルニゲローデの間に東西ドイツの国境があり、鉄道も通じていなかったのだから、感慨深いものがある。

 ヴェルニゲローデは魔女の集会で名高いブロッケン山に向かう保存蒸気鉄道の起点で、ダンナは以前この鉄道に中間点まで乗ったことがあるが、私は初めてである。駅に降りた途端、重油ではなく、昔ながらのコークスのにおいがぷーんと漂った。「このにおいだよ、このにおい!」と、ダンナは嬉しそう。まずは隣接するブロッケン鉄道の駅で、出発する列車を撮影した。

 パッサウで泊まったホテルが古くて、インターネットの使える環境ではなかったため、ダンナは今夜は何としても自分のHPに現地報告をしたいらしく、「絶対通信のできるホテル!」と主張する。街を歩きながら探すと、新装開店のホテルがあったので、まず部屋を見せてもらうと、さすが新しいだけにまだペンキのにおいがし、設備も合格だった。フロントに戻って宿帳に記入していると、陽気な中年男性のレセプショニストが「中国人か?」と訊く。多分、日本人客は初めてなのだろう。ブロッケン鉄道に乗る日本人鉄ちゃんは時々いるが、ヴェルニゲローデは素通りしてしまう人がほとんどだからだ。ダンナも前回はどこかから日帰りしている。

 荷物を降ろし、駅に戻ってブロッケン鉄道に乗った。機関車・客車とも、DR(東ドイツ国鉄)時代そのままの質素な造りである。中には、車輌に入ったロゴさえDRのままのものがあった。

 意外にも、途中はなかなか高級そうなリゾートだった。山歩きの好きなドイツ人が、ブロッケン登山を兼ねて長期滞在するらしい。駅の売店に魔女グッズが山積みされている一方で、森の中には旧東ドイツ時代の名残と思われる見張り塔が点在し、行楽気分を一瞬冷ましてくれる。

 気温が低く、雨模様で湿度が高いから、蒸機は景気よく白い煙を噴き上げる。撮影には却って好ましい天候で、ダンナは何度もシャッターを切った(注6)。右に左にうねりながら山道を登る列車に、またしても「何でこんなところにまで鉄道が」と思ったが、ここは昔は軍用線で、国境警備の東ドイツ軍の資材運搬と、高級将校・官僚の別荘地行きのために敷設されたのだ、とダンナが言った。時代の流れを感じる。

 待避やスイッチバックを繰り返し、2時間かけてブロッケン山頂に着いたが、ひどい霧で5m先も見えず、とにかく寒い。有名なブロッケン現象を試すどころではなく、駅舎に飛び込んだ。取りあえず来たしるしに「ブロッケン山頂まで来ましたシール」を買って、引き返す列車にそのまま乗り込む。天気がよければ少し散歩してみたかったのに、残念。

 急勾配のため、下る方が慎重に、ゆっくりゆっくりと列車は降りる。途中、駅でもないところで停まるので、何かと思ったら、乗っていた女性係員が自分で降りてポイントを切り替え、少し先でもう一度停まった時に乗り込んできた。乗客の1人は、この寒いのにデッキに出たまま、乗り心地を楽しんでいる。どうやら乗り鉄らしい。鉄ちゃんにも、乗り鉄・撮り鉄・作り鉄(模型好き)と、いろいろジャンルがあるのだ。ダンナは全部やるけれど。

 たっぷり時間をかけて市街地まで戻る。保存鉄道とは言え、蒸機が街の中を車と併走する景色はやはり楽しい。

 帰ってから晩御飯にしようと、街の中を歩きながらよさそうなレストランを探す。たまたま入ったレストランだったが、これが大したヒットで、今回の旅行中3本の指に入るものだった。明るく静かな造りに、サービスしてくれる年配の女性もにこやかで上品、何よりもダンナの頼んだ料理についてきたカリフラワーが絶品だった。ナイフの重みだけですっと切れる柔らかさでありながら煮崩れせず、野菜本来の甘みがすばらしい。メニューにカリフラワーのページがあったから自信があるのだろうが、「どうやったらこんな風にゆでられるんだろうね」と言い合う。ゆでてソースをかけてあるだけなのに、幸福感さえ感じさせてくれるカリフラワーなんて、生まれて初めて食べた。お勘定の時、思わず「カリフラワーがすばらしかった」と言ったら、先の女性がにっこりと笑った。主菜でなく、付け合わせを褒めたのだから、もしかしたら失礼だったかも知れないが、忘れられないカリフラワーである。

 ホテルに戻ってダンナがせこせことアクセスしたら、スイスにいるふかPからメールが入っていた。彼らも飢え死にすることなく、楽しく旅行を続けているらしい。翌々日の朝には、予定通り再会できそうだ。

 翌朝、ヴェルニゲローデの街でもう少し蒸機を撮ってから、ブラウンシュヴァイクを見物し、夜行でスイスに入ろう、と決める。この計画が丸潰れになって、犯罪まがいのホテル脱出をすることになろうとは、この時点で知るよしもない。

 

(続く)


    
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