ドイツ贔屓の中欧訪問記 2

パイプオルガンの故郷を訪ねて(川口教会報への寄稿より)

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by よー子

 

 ちょうど10年前に設置されて以来、すっかり川口の一部となってくれたパイプオルガン。当時、設置作業のためにドイツのリンク社から来てくれた3人の技術者の方々を、皆様はご記憶でしょうか。

 そのうちの1人、ヨルク・ロラーさんと文通を続けていたのですが(と言っても私の方は、度々もらう長い手紙を読むのも返事を書くのも四苦八苦という有様ですが)、7月にドイツを旅行した際、夫ともどもお宅を訪問し、リンク社を見学させてもらうことができました。川口のパイプオルガンの故郷と生みの親である人たちの今をご紹介します。

 季節はずれの台風に送られて成田を出発したのは7月8日。同日夜にフランクフルトに着き、翌朝まずはシュトゥットガルトで、ヨルクの双子の兄弟、アルプレヒトと会いました。3年前、ヨルクの紹介でメールフレンドになり、今回彼ら兄弟との日程調整ができたのは、全てアルプレヒトとeメールのお蔭です。

 この日は一日アルプレヒトと過ごし、夕方いよいよヨルクの住むディリンゲン・アン・デア・ドナウ(以下ディリンゲン)に向けて出発です。

 シュトゥットガルトからディリンゲンまでは電車で2時間弱。途中、後述するゲッピンゲンや、塔の高さでは確か世界一の聖堂のあるウルムなどの都市を通ります。

 車窓風景を楽しんでいましたが、あいにく雨が降り出し、乗換駅のギュンツブルクで屋根のないホームを急いでいたところ、嬉しそうに走ってくる男の子と、小さな女の子を抱いた背の高い人影が。ヨルクと子どもたちが迎えに来てくれたのです。

 「濡れちゃうよー」とはしゃぎながらも礼儀正しい5才のトーマスと、パパにかじりついて離れない2才のハンナに「初めまして」を言っただけで、ヨルクとは挨拶もそこそこに車に乗り込みました。雨のため、ドラマチックな再会シーンは演出ならず、残念!

 ディリンゲンは、正式名称にアン・デア・ドナウとつく通り、ドナウ河畔の小さな町です。雨の中、車は連なる畑が緩やかに起伏を描く南ドイツらしい風景の中を走り、20分ほどで彼らの家に着きました。笑顔で迎えてくれたのはヨルクの奥さん、お医者さんのドリスです。

 子どもたちは見慣れない日本人に大興奮で、広いリビングを走り回っていましたが、「ごはんですよ」の一言でおとなしく食卓につきました。するとヨルクが、「ハンナ、ピッピッピをしようね。容子もおも(夫のこと)も、子どもたちと手をつないでやってくれる?」と言うのです。言われるままに手をつなぐと、全員調子を取って手を振りながら、お祈りが始まりました。「ピッピッピ、天のお父さま、あなたを讃えます。ごはんをありがとう・・・ピッピッピ、さあ召し上がれ!」本当はもっと長い文句で、子ども向けの主の祈りかと思ったのですが、子どもの食前の祈りということでした。明らかにヒアリング力不足ですが、それはともかく、まだ2才のハンナも一緒にお祈りをする家庭の雰囲気は、とても好もしいものでした。

Joerg,Hannah,Thomas&Yoko

 時刻は既に21時を回っていましたが、夏のドイツではようやく暮れかかる頃です。7月というのに雨のせいで肌寒く、食後、ヨルクが火を入れてくれた暖炉のそばでコーヒーを頂きながら、積もる話に花が咲きました。

 実はヨルクは、5年前にリンク社を辞め、現在は専業主夫です。川口に来てくれた当時も、新婚のドリスを恋しがっていた彼ですが、パイプオルガン職人という仕事はどうしても長期の出張が多く、家族と一緒に過ごすために辞める決心をしたそうです。「また仕事をしたいと思わない?」と尋ねると、「まだ子どもたちが小さいし、ドリスがいずれ病院を辞めて開業したがっているから、それ次第」と言っていましたが、第三者としては、15年のキャリアをいつかまた活かせたらいいのに、と思わずにはいられません。

 後継者難に悩む日本の伝統技術職と違い、ドイツでは若いオルガン職人は十分いるそうです。と言っても、「交際を始めた頃、友人に彼のことを話すと、『そんな仕事があるの』と驚かれた」とドリスが笑うくらいで、珍しい職業であるには違いないのですが。ドイツには中世以来のマイスター制度があり、オルガン職人の場合、3年の修行期間を経て職人試験に合格しないと、オルガン職人を名乗ることはできません。それから職人として何年も経験を積み、さらに試験を受けてマイスターを目指すのですが、「もっと家族と過ごしたい」と、ヨルクのように中堅の年齢になって辞めるオルガン職人が少なくないとのことでした。「やりがいのある仕事だと思うけど、あまりにも家族の時間がなさ過ぎる」というドリスの言葉が、現時点での2人の考えを端的に示していると言えるでしょう。

 ヨルクは家事の他、教区の子どもサークルのリーダーや、地域の合唱団のメンバーとしても活躍しており、この日も16時頃、2泊3日の子どもキャンプから戻ってきたばかりでした。忙しい中、2泊もさせてもらうことになっていて、ありがたいやら申し訳ないやら。

 翌10日朝、相変わらずどんよりとした天気。ドリスは病院に行ってしまいましたが、子どもたちが起きるまで、ヨルクの言う「小さな」庭(しかし我が家の敷地全体の半分以上ある)に出てみました。彼のお手製ジャムの材料となるベリー類が実をつけ、隅には屋根付きの砂場に小山が崩れ残り、生け垣ではヒヨドリが卵を抱き、それらを眺めながら静かにシューベルトの流れるリビングで読書・・・いったいどうしたら彼のような優雅な朝が過ごせるのでしょう?

 朝食後、子どもたちも一緒に、彼の運転でゲッピンゲンとギーンゲンに連れていってもらうことになりました。なだらかな山を越え、森を抜け、教会の塔を目印に町や村をいくつも過ぎていきます。道々、ヨルクが「この村は初めて1人で仕事をしたオルガンのあるところ」「この町の教会で仕事をしている時にトーマスが生まれた」などと教えてくれました。1台1台のオルガンに思い出があるようで、いつか復職できればいいのに、とまた無責任なことを考えてしまいます。

 2時間弱でゲッピンゲン到着。ここに来たがったのは夫で、この市には鉄道模型メーカーの雄、メルクリン社があり、本社内の博物館に19世紀の製品から最新の模型まで展示してあるのです。一部は自動運転や来場者による運転ができるようになっており、ロングドライブに飽きかけたトーマスとハンナも元気を取り戻しました。私も仕事でメルクリンの社史を訳したことがあり、大変興味深かったのですが、やはり一番喜んだのは夫でした。

 午後からはギーンゲンに向かいます。ギーンゲンの目的地は、テディベアで有名なシュタイフ社、それにリンク社。ギーンゲンの人口は何千人あるのか、小さな町に世界企業がいくつもあるのです。それにしても、「ドイツに行くので会いたい」と知らせたら、真っ先にリンク社に連絡して見学できるよう計らってくれるなんて、本当にヨルクの親切には感謝の言葉もありません。

 リンク社の見学は夕方以降なので、まずはシュタイフへ。ここにも本社内博物館があって、同社の歴史やこれまでの製品を一堂に見ることができます。並べられた可愛いぬいぐるみ、ぬいぐるみ、ぬいぐるみ・・・ここでは私が子どもたちと同じレベルで大喜び。

 蛇足ながら、メルクリンとシュタイフがそう遠くない距離にあるのは、偶然ではありません。南ドイツはおもちゃ産業が盛んで、両社の他にも、やはり鉄道模型のフライシュマン、惜しくもなくなってしまいましたが今でもファンの多いブリキのおもちゃ・模型のシュッコ、ビングなどのメーカー、独特の表情で知られる人形作家のケーテ・クルーゼなど、全て南ドイツ生まれです。ニュールンベルクの世界的なおもちゃメッセやおもちゃ博物館をご存知の方も多いでしょう。南ドイツの木工技術が基礎にあるとするならリンク社のオルガンにもつながるかも、と思ったりするのですが、これは飛躍しすぎ?

 シュタイフ社からリンク社までは車で10分、約束の17時ちょうどに到着です。ヨルクの案内で、懐かしいナーケ社長にお目にかかりました。あの震災に触れて「皆さんはお元気か、オルガンは問題なく使えているか」と仰言るので、「礼拝堂を修復し、オルガンも礼拝はもちろん、オルガニストの人たちの発表会や他の演奏会にも大活躍している」と言うと、とても喜んでおられました。

 「ゆっくり見ていくように」との言葉に感謝しつつ、ヨルクの後について設計室、製材室に入ります。ここにはNC化された大型機械が並び、隣室で薄板を張り合わせ・圧縮して合板も作っていて、ここだけ見ていると製材所のよう。裏庭には大量の木材が乾燥のために積み上げられていました。半年から数年乾燥するそうで、捨ててあった木ぎれを手に、ヨルクが「これは樫、これはトウヒ、これは楓」と説明してくれます。オルガン製作は、木材選び・製材から始まっているのです。

 ここでもう1人、大変失礼なことにお名前を失念してしまったのですが、川口に来てくれた職人の方にご挨拶しました。やはりオルガンの使用状況を尋ねられ、先ほどと同じお返事をしました。

 階段を上がって、木工室へ。ヨルクが作業途中の構造部を見せて、どこからどう伝動するのか説明してくれたのですが、物理理解能力ゼロの私にはさっぱり。概要のご紹介すらできなくて申し訳ありません。さらに進んで金属加工室では、ナーケ社長がパイプを調整しておられました。背後の壁にはこれまで製造したオルガンのパイプの見本がずらっと並び、リンク社の歴史を物語っています。思っていたよりずっと大勢の職人さんが作業中で、中には女性の職人さんもおられました。

 最後に最上階の組立室に行きました。天井の高い大きな部屋に、組立途中のオルガンが何台かあり、ヨルクがそのうち1台の裏を見せてくれました。あるパーツを指して、「このパーツは、トウヒの表面に樫を貼ってあるんだよ。木は種類によって堅さや反り方が違うから、そのパーツの役割を考えて、必要な性質を持つ木材を選んだり、時にはこうやって組み合わせて使うんだ」。膨大な数のパーツの1つ1つが、そしてそれらの組み合わせの全てが素材から吟味され、動きを計算され、1台のオルガンという姿に結実していくのです。日本語ではオルガンを「組み立てる」と言いますが、ただあるパーツを組み立てるだけではありません。ドイツ語でbauen、英語ではbuild。オルガンは教会そのものと同じく、一から「建築する」ものなのでした。

 このあたりでそろそろ子どもたちが退屈し始めました。模型やぬいぐるみと違い、子どもの興味をそそるものではありませんから、無理もないことです。帰ろうとした時、ヨルクが「あれ、川口のじゃないかな」と上の方を指さしました。裏向けでしたが、輸出梱包のマーキング用ステンシルが置いてあり、「ヤマハ・ジャパン」と読めます。私たちのオルガンは、確かにここで生まれて旅立ってきたのだ、と思いました。

 ナーケ社長にお別れの挨拶をして、ディリンゲンに戻ります。ドリスが帰宅するまでもうしばらくあるので、少し町の中を案内してもらいました。ディリンゲンはギーンゲンよりまだ小さな町ですが、昔は司教館があり、宗教上は重要な町とのこと。現在はフランチェスコ会が盛んで、福祉方面の活動は同会なしでは成り立たず、トーマスの幼稚園も同会の運営だそうです。ヨルクの言葉通り、カトリックの立派な教会の隣にフランチェスコ会の教会の並ぶ様子は、興味深いものがありました。

 メインストリートは1本だけ、日本のどのガイドブックにも載っていないであろうディリンゲンですが、ドナウ河畔独特の明るさがある町でした。現在は市役所の一部になっている司教館の庭で、トーマスとポーチの投げ合いっこをいつまでやっても、日は暮れないのでした。

 翌朝、とうとうお別れです。出勤するドリスと挨拶を交わし、ヨルクとトーマス、ハンナが見送りに来てくれて、ディリンゲンの駅からローカル電車に乗りました。「いつか、家族で来てくれたらいいのにね」。その時は一緒に川口にも行きましょう。

 南ドイツの小さな町で手作りされてきたオルガンが、教会で、また周辺地域で愛されて響き続けますように。


    
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