ドイツ贔屓の中欧訪問記1
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by よー子

 

 いつから、どうしてドイツに興味を持つようになったのか、自分でも解らない。一番直接的な影響があったのは、中学時代に漫画「エロイカより愛をこめて」のドイツ人の主人公、NATO情報部のエーベルバッハ少佐のファンになったことなのだが、ドイツ語の合唱曲の言葉の響きも早くから好きだったし(もちろん意味は解らないまま)、民族性や同じ第二次大戦の敗戦国としてのあり方がよく比較されることに興味をもった、というのもある。大学進学の時、国文学をやるかドイツ語をやるか迷った末、自分の性格から考えて、古文は趣味でも読むだろうが語学は強制力がないと勉強しないと思い、親に「ドイツ語が将来の仕事に結びつくことはないだろうが、4年間道楽をさせてやると思ってドイツ語の勉強をさせてくれ」と頼んだものである。

 それが、現在も趣味として続けている合唱の役に立ち、細々ながら口を糊する種になってもいるのだから、人生、判らないものだ。

 ちなみに古文の方は、予想通り趣味でかなり読んでいる。18才、人生は判らなくても、自己認識は結構確かなのだった。

 そんなわけで、10年ぶり、4度目のドイツ旅行となった。正確にはドイツ旅行ではなく、行き先はドイツ・スイス・イタリアの3国である。期間は全部で2週間。

 今年はダンナが勤続20周年のリフレッシュ休暇がもらえるので、お金なんかあってもなくてもその時期に旅行する、というのは、2・3年前から我が家の既定路線だった。去年、愛犬くま太が死んでしまって、家を空けるのに障害がなくなったのも、くま太がいなくなって唯一の「いいこと」である。

 「ドイツに行くんだ」と言い続けていたら、鉄ちゃん仲間の谷野くんとふかPが「スイスに行きたいんだけど一緒に行かない?」と言い出した。彼らはスイスの私鉄RhB(レーティッシュ鉄道)のファンで、とにかくこれに乗りたい・写真を撮りたい一心、目指すはスイスオンリーである。うちのダンナも、RhBは既にかなりこなしてしまっているのだが、好きな鉄道だから、「スイスもいいねぇ」と同調し始める。そこを「アタシはスイスだけなんてイヤだからね」とごねまくって、4人同時に出発するが前半1週間はダンナと私はドイツを回り、8日目に谷野くん・ふかPと合流して後半1週間はスイス(そのうち最後の2日間は行程の都合でイタリア)という折衷案を呑ませてしまった。出発日は7/8、帰国日は7/23である。

 ドイツには会いたい人が何人かいるのだが、こんなごたごたもあって連絡が遅れ、最終的に日程が確定したのは、出発直前もいいところの7/5だった。強引に主張するわりに、行動の遅いのが私の欠点である。

photo 1

 7/8、関東地方は季節外れの台風に見舞われ、「飛行機なんかホントに飛ぶのか」という大荒れとなった。一晩中寝ずに台風情報・航空情報とにらめっこし、国際便は何とかなると判断して家を出る。問題は、大阪在住で成田で合流予定のふかPが果たして来られるかということだったが、まめ男の谷野くん(今回のグループ旅行が実現したのは、9割がた彼のお蔭と言っていい)がふかPと頻繁に連絡を取り合い、大丈夫と言うので、安心して成田に行ったら、2人とも先に着いて待っていた。それにしても、何で今頃関東に台風が上陸するのか、心中秘かにおのれの行状を振り返る私である。いや、私のせいではないはずだ。

 成田にはもう1人、これも鉄ちゃん仲間の森本さんが見送りに来てくれていた。彼は島根在住で、所用で東京まで来たからとのことだったが、東京から成田は決して近くない。おまけに、前回旅行した時の余りと言って、スイスフランの小銭をもらってしまった。重ね重ねありがたいことである。(写真1)

 国内便は欠航が相次いでいるのに、国際便は東南アジア方面を除いてほぼ定刻の運行。私たちの乗ったJALも、見事に定刻の出発だった。

 国際便には何度も乗っているが、JALでヨーロッパに行くのは初めてで、海外旅行は新婚旅行以来8年ぶりである。当然ながらエコノミーなのだが、機内サービスが格段に充実しているのに驚いてしまった。全席に専用ディスプレイが付き、映画やゲームが好きに楽しめるようになっている。喜んだ私は、約12時間の飛行中、食事時間を除いた10時間以上をトランプゲームのソリティアをして過ごし、同行者一同に思いきり呆れられた。

 

 「多少の揺れが予想される」との離陸時のアナウンスに反し、ほとんど揺れず、しかも予定より早くフランクフルトに着く。時差があるから、出発日と同日の夜である。

 初日と最終日はフランクフルト中央駅に隣接するインターシティ・ホテルを取ってあったため、楽勝でチェックインできた。このホテルになったのは、ごくリーズナブルな料金ももちろんながら、「名前がいい」という谷野くんの強い希望による。彼がこのホテルに執着して、異常なほど安い宿泊プランを探し出したのだ。鉄ちゃんの血のなせる業と言えるが、実際いいホテルだった。

 時刻は20時近かったが、外はまだ十分に明るく、チェックイン後、夕食の仕込みと散歩を兼ねて駅周辺をうろついた。同行者3人は日本人離れした大食漢である。私も他人のことは言えないが、飛行機でたらふく食べて、もう夕食は要らないかな、と思っていたのに、彼らにとっては「機内食は機内食、夕食は夕食」なのだった。とは言え、さすがにレストランで本式に食べるほどの空腹ではなく、駅の売店でサンドイッチをテイクアウト。ホテルの部屋で、無事到着を祝い、コーヒーやコーラで乾杯する。

 1つだけ不安だったのは、翌日シュトゥットガルトで会うはずのアルプレヒトに電話したのに、留守だったことである。留守電に予定の電車の名前と到着時刻・到着番線を吹き込んでおいたので、翌朝もう一度電話してみることにする。

 こう書くと、平然と留守電に対応したようだが、ドイツ語の留守電というシチュエーションは想定外で、ものすごく緊張した。会話力は思いっきりサビついているのに、本当にこれから2泊3日もドイツ人家庭と過ごせるのか?

Frankfurt Hbf

 翌7/9朝、出発前に再度アルプレヒトに電話。今度は在宅、やっと直接連絡が取れたので、ダンナと私は安心して予定の電車に乗る。見送ってくれた谷野くんとふかPは、心なしか不安げ。ま、食べ物にさえありつければ大丈夫。1週間後、生きて会おうぜ。

 車窓を楽しみたいところだったが、車内ですべき仕事が残っていた。アルプレヒトの息子、ファビアンへのお土産に日本から持参したポケモン辞典に、ポケモンの日本語名をローマ字で書き込むという作業である。そのままポンと渡したって何が何だか解らないだろうから、せめて名前だけでも、というわけだ。250種類もあるとこれだけでもかなりの手間である。海外進出時、ピカチュウ以外ほとんど全てのポケモンの名前を現地語化してしまった版権所有者(バンダイか?)を呪いつつ、シュトゥットガルト到着直前に滑り込みで作業完了。

 駅のホームで、アルプレヒトを探す。こちらの写真はメールで送ってあるが、彼の顔は見たことがない。彼からのメールには「双子の兄弟のヨルクの顔を知っているのだから大丈夫だね」とあったけれども、ヨルクと会ったのだって10年も前のことで、できれば自分から見つけてもらいたいなーと思っていると、おぉ、さすが双子、見覚えのある顔が近づいて来るではないか。初対面のような気がしないとはこのこと。でも初対面には違いなく、抱き合った上両頬にキスしてもらって挨拶をしたのだが、日本人としては、この作法がどうもよく解らない。何度か経験はあるが、キスしてもらうだけでいいのか自分もするのか未だに不明。とりあえず、してもらうだけにする。しちゃってよかったんでしょうか。

 アルプレヒトが、「駅の屋上から街を眺めてみる?」と言う。シュトゥットガルトの駅には17年前に来たことがあって、ホーム周辺は変わっていなかったが、屋上に上がれるなんて知らなかった。シースルーのエレベーターなんてものはなかったはずだし。

 屋上はかなりの強風だった。シュトゥットガルトはドイツ有数の大都市だけれど、緑の丘に囲まれてとても美しい。「あの丘はブドウ園があって、あれは大学で・・・」と教えてくれるアルプレヒトの声を聞きながら、「ドイツに来たなぁ」と実感が湧く。同じ盆地である京都も、昔はこんなに落ちついた風景だったに違いない。

photo 2

 アルプレヒトが郊外の自宅に誘ってくれ、地下のSバーン駅に行った。彼が鉄ちゃんのダンナに気を利かせてくれたので、しばらく眺めたり写真を撮ったりする。シュトゥットガルト市電には線路幅の狭い古い路線と幅の広い新しい路線があり、当然車体幅も違うのだが、中央駅はどちらも乗り入れられるよう、レールが3本敷いてある。今の車輌に混じって、時折幅の狭い古い車輌が入ってくるのが面白い。(写真2)

 2号線に乗ってトンネルを出ると(盆地だから、中心部から出る電車は全てトンネルをくぐることになる)、すぐに何という名前だったか、アルプレヒトが車を停めてある駅に着いた。中央駅から15分ほどしか乗っていないのに、もう小鳥の声しか聞こえない静かな住宅地である。「市街地に近くてこんなに静かで、いいところだね」と言うと、「だからこの辺の家は高いんだよ。アウトバーンの入口や空港にも近いのに環境はいいからね」とのこと。いずこも同じ。

Albrecht,Birgit & Yoko

 アルプレヒトがシュヴァーベン地方の郷土料理のレストランを予約してくれた。小さなレストランだったが、あっと言う間に満席になり、諦めて帰る客もいるほど。いかにものドイツ料理で、アルプレヒトも「うちの祖母が作るのと全く同じ味」と言う。ビルギットはケルンに長くいたとかで、2人で地方の味の比較をし始め、このあたりから、会話にほとんどついていけなくなってしまった。私はメールでは多少マシなドイツ語を書いているはずだから、アルプレヒトは私がもっと会話もできるものとがっかりしたに違いない。時折テーブルに沈黙が漂うが、どうしようもなかった。

 気分直しに(?)レストランを出る。お店のご主人が"Adee (= Auf Wiedersehen)"と声をかけてくれたので、同じく"Adee"と応えると、「おや、この人はシュヴァーベンの挨拶を知ってるよ!」と驚かれた。

 私は大学3年の時、シュヴェービッシュ・ハルのゲーテ・インスティテュート(外国人のためのドイツ語学校)に4週間入ったことがあるので、シュヴァーベン方言・南ドイツ方言を少しだけ覚えている。シュヴァーベンは現在のバーデン・ヴュルテンベルク州と一部バイエルン州を含む地域で、"Gruessgott (= Guten Morgen/Tag)"と"Adee"の挨拶語は、シュヴァーベンとバイエルン、フランケン(バイエルン州北部とバーデン・ヴュルテンベルク州北部)の他、スイスの一部やオーストリアでも広く使われる。ところが、北限はどの辺になるのか、中部以北のドイツでは全く耳にしない。長い間諸国が分立していたドイツの歴史を感じさせる。ルター以来の近代ドイツ語は北部低地ドイツ語の1つ、ニーダーザクセン方言を基礎とし、標準ドイツ語はハノーヴァーやツェレ付近の言葉ということになっているから、南ドイツの人間にはちょっと悔しいに違いない。

 南ドイツは気風も大らかで、郷土意識が強い。バイエルンなど、過剰なほどの地元意識があって、時に他の地方の人間を鼻白ませることもあるらしいから、日本で言うとカンサイやナゴヤみたいなものかと思うが、北ドイツに比べると明らかに人々の表情がにこやかで、愛想がいい。特に田舎は、ドイツと言うよりオーストリア的なのどかさがある。

 アルプレヒトにもゲーテ・インスティテュートに入っていたことは話してあるが、大学の専攻がドイツ語だったのは内緒である。4年も専門教育を受けながら碌に会話もできないなんて、彼らの大学教育のイメージからは考えられないことだから、恥ずかしくて言えたものではない。情けない話である。

photo 3

 アルプレヒトが市電のラック区間に連れていってくれた。ダンナが鉄ちゃんなのを知って、事前にいろいろ調べてくれており、「シュトゥットガルトではこの区間の他、古い木製のケーブルカーが有名なんだけど、今月いっぱい点検で休みなんだよね」と惜しそうに言う。彼も南ドイツ的に愛郷心の強い人で、シュトゥットガルトの名物をいろいろ見せてくれたいらしかった。車でそのケーブルカーの路線の下をくぐったが、百年以上経った由緒ありげな設備で、確かに一見の価値はあると思われ、乗れなかったのが残念。(写真3)

 メールで「市電にラック区間がある」と言われた時、「シュトゥットガルトってそんな山あったっけ?」と思ったが、高くはないがなかなか急な坂が少なくなく、これならと納得する。それにしても、スイスもそうだが、「何でこんなとこに鉄道を敷かなきゃならなかったの」と思うようなところまで、まるで意地のように路線が張り巡らされていることには、毎度驚かされる。日本もスイスに負けない山国だが、ラック式鉄道は全国に1つしかないし、増して市電でそんなものを作ってしまうなんて考えられない。日本には日本の事情があるのだけれど、デザインは変わっても黄色を基調にした市電の車輌が、丘の上から地下区間まで街の風景に溶け込んでいることは、素直に羨ましいと思う。

photo 4

 テレビ塔の上は展望台になっていて、シュトゥットガルトはもちろん、シュヴァーベンからシュヴァルツヴァルトまで一望に見渡せる。そう聞いて、シュベービッシュ・ハルはどの辺かと探したが、アルプレヒトが「あの辺だよ」と教えてくれるまで、全く見当違いの方向を見ていた。地元の誇り、ダイムラー・ベンツ(正式にはダイムラー・クライスラーのはずだけれど、この辺でそんな風に呼ぶことはあるのだろうか?)の大工場も見える。楽に町1つ分くらいある、とんでもない広さである。

 なだらかな緑の中に街の広がる風景は見飽きないのだが(写真4)、この日はあまりにも風が強くて寒く、中の喫茶室に逃げ込んだ。混んでいて相席になったが、ドイツ人は日本人ほど嫌がらないし、「袖触り合うも他生の縁」という感じで気安く話をし、どちらかが席を立つ時には必ず挨拶を交わしていく。特に、ビルギットはオープンな人で、偶然知り合いに会ったのかと思うほど、相客と楽しそうに話していた。日本の都会で、相席の場合にできるだけ目を合わさず、口もきかずに終わることが多いのと大きな違いである。シュトゥットガルトはドイツでは有数の大都会だが、こういうところはまだまだ素朴だ。だから「ヨーロッパの田舎者」と揶揄されたりするのだが、フランスほど個人主義的ではなく、イタリアほど暑苦しくないところが、やたら私の性に合う。きっと私も田舎者なのだろう。

 夕方には、アルプレヒトの双子の兄弟、ヨルクの家に向かわなければならない。テレビ塔を降りて、中央駅に向かった。帰りは市電の別の路線で、やはり山を下って行く。ラック式でこそないが、かなりの急勾配である。昔はブドウ摘みの人たちが、摘んだブドウを籠で担いで降りた道だ、とビルギットが教えてくれたが、アルプレヒトが「それは向こうの道だ」と言い出し、何やら2人であれこれ話し始めた。

 残念ながら、アルプレヒトとビルギットの普通のテンポの会話には全くつけていけないので、この頃には2人も諦めて、自分たちのしたい話は自分たちのしたいようにやっている。負け惜しみのようだが、ドイツに来てから何日か経っていれば、少しは舌も耳も慣れていたはずなのに、返す返すも口惜しい。後日、アルプレヒトから「もっとお互いに知り合いたかったけど、あまり時間がなくて」とメールが来たが、時間のせいにしてくれた彼は本当に親切だ。

 連絡が遅くて日程を慌ただしく決めてもらった上、したい話も十分にできなかったのに、アルプレヒトもビルギットも「とてもいい1日だった」と言って、雨の中、ホームの端まで見送りに来てくれた。発車までちょっと間が悪かったが、ビルギットが車椅子でくるくる回っておどけて見せてくれた。正しく陽性で、素敵な人だな、と思う。アルプレヒトと長くうまくいけばいいんだけど。

 列車は雨のホームを滑り出した。ぎりぎりまで2人に手を振る。

 次はヨルクとその家族。ヨルク本人は知っているけれど、家族はどんな人たちだろうか。楽しみなような、不安なような気持ちで、車内での時間を過ごした。


    
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